『ストレンジャー・シングス』を観ながら、これはトラウマと回復の物語を、SFホラーの文法に翻訳したものなのではないか、とずっと考えています。きっかけは些細なことでした。この作品の怪物は、銃では倒れません。倒すには、過去の記憶のなかに分け入り、そこで何かと向き合わなければならない。その手続きが、あまりにもスキーマ療法という心理療法のプロセスに似ているのです。
スキーマ療法では、人の心をいくつかの「モード」で捉えます。傷ついて満たされなかった子どもの自分(チャイルドモード)、「お前は罰せられて当然だ」と内側から責め立てる親の声(懲罰的なペアレントモード)、そして傷ついた子どもを抱きしめ世話をする健全な大人の自分(ヘルシーアダルトモード)。回復とは、これらの関係を組み替え、最終的にヘルシーアダルトモードが傷ついた子どもを抱え直せるようになることを指します。
この枠組みを持ってもう一度作品を眺めると、全体がひとつの図式に収斂していくように見えてきます。裏側に棲む生物たちは懲罰的なペアレントモードの外在化であり、こちら側の人間たちはチャイルドモードを抱える者たちであり、怪物退治とは自分自身と向き合うことの寓話である——と。以下、この読みがどこまで作品を説明できるのか、確かめていきたいと思います。
※ 以下、作品のネタバレが含まれます。踏みたくない方は、ここでブラウザバックをお願いします。
#裏側という無意識
まず世界設定そのものから始めます。裏側は、こちら側と寸分違わぬ地形を持ちながら、暗く腐敗し、普段は決して目に入らない鏡像の世界として描かれます。これは無意識の構造とほとんど同じです。日常のすぐ真下に、同じ形をしているのに直視できない領域が広がっている。封印された記憶や抑圧された情動が棲む場所。そこから生物が這い出してくるという設定は、抑圧したはずのものがかたちを変えて回帰してくる、というあの心の動きにそのまま重なります。蓋をした痛みは消えてなくならず、戻ってくるのです。
ここから先を読むうえで鍵になるのは、裏側の生物を「外からやってくる脅威」ではなく「内側にあったものが外に出てきた姿」として観る、という視点の転換です。この転換ができると、作品の見え方が一変します。
#ヘンリーという、治らなかった子ども
この読みを最も鮮烈に体現しているのが、ヘンリー(ワン、のちのヴェクナ)です。
見落としてはならないのは、彼が最初から怪物だったわけではない、ということです。彼はもともと、人を助けようとする優しい少年でした。その彼を変えてしまったのが、あの事件です。助けようとした相手に、逆に命を奪われかける。そして咄嗟に、その相手を殺してしまう。
スキーマ療法では、トラウマの本質を、出来事そのものよりも「その出来事が自分と世界についての信念をどう書き換えたか」に見ます。あの瞬間、ヘンリーのなかにはおそらく、こういう学習が刻まれたはずです。善意は自分を守ってくれない。他者を信じれば殺される。生き延びるには、相手より先に支配するしかない。人を助けようとした優しさそのものが彼を危険にさらした、というのがあまりに残酷で、だからこそ彼はその優しさを封じ、支配と不信に振り切っていきます。傷ついた子どもを守るために、懲罰的で支配的な鎧をまとった、と言い換えてもいい。
そしてマインドフレイヤーが、彼の手のひらの傷口から体内に侵入してくる。あの描写は、生物の侵入としても、彼の内面の外在化としても、どちらにも読めるように作られていると思います。重要なのは、健康な皮膚を破って入るのではなく、すでに開いていた傷から入ってくる、という点です。あの事件で開いた心の裂け目——空洞——に、外から何かが流れ込んだ。そう読むと、ぞっとするほど筋が通ります。
#マインドフレイヤーとの共依存
ここで、終盤のウィルの言葉が効いてきます。ウィルはヘンリーについて、彼も被害者なのだ、という趣旨のことを語ります。これはヘンリー自身への、静かな擁護に聞こえました。生まれついての悪なら擁護のしようがない。損なわれた善だからこそ、悼む対象になるのです。
そして、この関係を読み解くうえで最大の手がかりだと感じたのが、マインドフレイヤーがヘンリーに昔の記憶を見せたがらなかった、という点です。
もしマインドフレイヤーがヘンリーを単なる道具として使っているだけなら、彼の子ども時代の記憶など、どうでもいいはずです。道具の手入れに、その道具の幼少期は関係ありません。なのに、記憶へのアクセスを遮断した。なぜか。記憶へアクセスすることは、健全な大人の自分が育つ入り口だからです。過去のトラウマに今の視点で向き合い直せてしまえば、ヘンリーは「融合しなくても自分を支えられる自己」を手に入れてしまう。境界線が再生し、扉が閉じ、マインドフレイヤーは器を失う。
つまりマインドフレイヤーは、ヘンリーが治ることを恐れたのです。これは道具を管理する論理ではなく、見捨てられることを恐れる論理です。パートナーが自立し始めると、依存している側が無意識にそれを妨害する。相手が健康になれば、自分が必要とされなくなるから。マインドフレイヤーがヘンリーに回復の手段を与えなかったのは、この共依存の力学そのものです。相手を必要とするがゆえに、相手が治ることを妨げる。
そうなると、両者の欲求の噛み合い方が見えてきます。融合したいマインドフレイヤーと、世界を支配したいヘンリー。一見ベクトルの違う欲求が、互いの欠落を埋め合うように結びついている。共依存とは、まさにこういう噛み合わせのことです。片方の「呑み込みたい」と、もう片方の「コントロールしたい」が溶け合って、どこまでが自分でどこからが相手か分からなくなる。どちらが宿主でどちらが寄生者なのか、作品はあえて曖昧にしたまま進みます。その曖昧さこそが、この関係が支配ではなく共依存であることの証拠だと思うのです。似た傷を抱えた二者が出会ってしまった悲劇、と呼びたくなります。
#ヴェクナの手口——記憶を武器にするということ
ヴェクナが犠牲者を襲うときのやり方も、この読みを裏づけます。
彼が見せるのは、嘘の幻覚ではありません。本人が防衛で固く封印していた本物の記憶——罪悪感や、恥や、向き合うことを避けてきた過去——を掘り起こし、正面から突きつけてきます。これは懲罰的な親モードの外在化そのものです。お前のせいだ、お前は罰せられて当然だ、という内なる声を、ヴェクナは外から増幅して浴びせてくる。
巧妙なのは、彼が嘘ではなく真実を使うことです。本人が「これは確かに自分が感じている罪悪感だ」と認めざるを得ないものを突いてくるから、抵抗ができない。防衛がゆるんだ瞬間にトラウマが侵入的に襲ってくる、というあのフラッシュバックの力学にも重なります。ヴェクナは、トラウマそのものが人のかたちを取った存在なのです。
ここで一つ、対比が浮かび上がります。ヴェクナが他人の記憶を武器にして攻撃するのは、彼自身が一度も、その記憶に救われた経験を持たなかったことの裏返しなのではないか。自分が癒せなかったものを、他者のなかで見つけ出しては破壊し続けている。そう読むと、彼の加害には、救われ損ねた者の悲鳴のようなものが滲んで聞こえてきます。
#退治のしかた——内なる守護イメージという盾
では、その記憶の攻撃を、どうやって乗り越えるのか。ここに、この作品のいちばん美しい答えがあると思っています。
最新シーズンで、マイクの妹ホリーがヴェクナの記憶世界にとらわれ、そこから脱出する場面が象徴的でした。最初、ホリーは、自分には彼氏も、横で支えてくれる人もいない、と嘆きます。これは、自分の外側に救済者を探している状態です。誰かが助けに来てくれるのを待っている。それに対して、彼氏なんて必要ない、必要なのは自分を支えてくれる記憶だ、と諭される。そしてホリーは、「勇者ホリー」が私を守ってくれるのだと、ふだんから空想のなかで育ててきた自己像にメタ的に接続していきます。その瞬間に、脱出のゲートが開きます。
この流れは、スキーマ療法のプロセスとほとんど同じです。心の支えを外から内へ転換させ、自分のなかの守護的なイメージを起動する。重要なのは、「勇者ホリー」が、危機の瞬間に外から探してきた救世主ではなく、彼女がふだんの空想のなかでずっと育ててきた「強い自分」だということです。
ここがこの作品の、本当に深いところだと思います。スキーマ療法では、傷ついた子どもを抱きしめる健全な大人モードを、時間をかけて育てていきます。多くの場合、それはセラピーのなかで少しずつ形づくられるものです。ところがホリーの場合、それが空想という形で、あらかじめ準備されていた。子どものごっこ遊び、他愛ない空想の自己像が、いざというときにトラウマから身を守る盾として機能する。普段は遊びにしか見えないものが、危機の瞬間に最も確かなリソースになるのです。
ウィルが心に持つ「賢者ウィル」も、同じものだと思います。勇者が行動で守る力なら、賢者は知恵で状況を見通し導く力です。この二つは、健全な大人モードの二つの側面に対応しています。傷ついた子どもを守るには、立ち向かう強さと、状況を見極める知恵の両方が要る。子どもたちが空想のなかでこの役割を分け持っているのは、彼らが持ち寄る内なる自己像を合わせて、一つの「守る大人」の機能を共同体として果たしている、とも読めます。一人ひとりは子どもでも、その集まりが、ヘンリーには決して与えられなかった守護者の役を担っている。
そしてここで、ヘンリーとの対比が決定的になります。ヘンリーには、あの傷口が開いた瞬間、この守護者の席が空っぽでした。勇者ホリーに相当する内なる存在が、いなかった。あるいは機能しなかった。だからその空席に、外から流れ込んだマインドフレイヤーが座ってしまったのです。ホリーは守護者の席を、自分の空想ですでに埋めていた。だから侵入を許さず、ゲートを開いて脱出できた。突き詰めれば、ヘンリーとホリーを分けたのは、傷ついた瞬間に、自分のなかに迎え入れる相手を持っていたかどうか、その一点だったのかもしれません。
#癒されていく、大人たち
そして、これは子どもだけの物語ではありません。同じ文法が、大人たちにも貫かれています。
ホッパーは、娘サラを亡くした喪失と、大切なものは必ず失われる、自分は守れない、という愛着の傷を抱えています。それが、エルとの疑似親子関係のなかで——ぶつかり、失敗し、それでも関係を手放さないなかで——少しずつ抱え直されていきます。ここで見逃せないのは、これがエルへの再養育であると同時に、ホッパー自身の傷の修復でもある、という双方向性です。傷ついた大人と傷ついた子どもが、互いの健全な大人モードを育て合っている。
スティーブは、人気者を演じるという表層的な防衛から出発して、仲間を守る保護者的な役割を引き受けていくなかで、健全な大人モードへと成長していきます。防衛モードから健全な大人モードへの移行を、シリーズ全体を通じて体現している人物だと言えます。ナンシーもまた、バーバラの死をめぐる罪悪感(これもまたヴェクナに狙われうる核)を抱えながら、行動する自己を確立していく。ジョイスは、不安と喪失を抱えながらも、子どもたちを抱える親であり続けます。
一人や二人なら、偶然と呼べたでしょう。けれども、これだけの人数が、同じ文法——傷ついたチャイルドモードを抱え、それと向き合い、健全な大人モードを獲得していく——で説明できてしまう。これは、この読みが作品の設計思想の近くを掘り当てている、一つの証拠ではないかと思うのです。
#おわりに——意図か、収束か
ここまで、『ストレンジャー・シングス』をスキーマ療法のレンズで読み解いてきました。最後に、一つだけ正直に置いておきたいことがあります。
この符合は、作り手が意図的にスキーマ療法を下敷きにした結果なのでしょうか。それとも、優れたトラウマ描写を突き詰めた結果、自然と心理療法の構造に近づいた(収束)だけなのでしょうか。
私は、どちらとも断定しないでおきたいと思っています。というのも、スキーマ療法そのものが、人が実際にどう傷つき、どう癒えていくのかを丹念に観察して体系化したものだからです。だとすれば、リアルなトラウマ描写を追求した物語が、結果としてスキーマ療法と似てくるのは、ある意味で当然とも言えます。
けれども、それはこの読みの価値を少しも下げません。むしろ逆だと思うのです。作り手が意識していたかどうかに関わらず、この作品がトラウマと回復の普遍的な構造を捉えているのだとしたら、それはずっと力強い事実です。制作意図の推測ではなく、作品に内在する構造の発見として、この読みは立っていられる。
裏側に棲む怪物は、私たちが心の奥に封じた何かなのかもしれません。そしてそれを退治する力は、案外、子どもの頃に空想で育てた勇者のなかに、もうずっと前から眠っているのかもしれない。あなたは、この作品をどう観たでしょうか。